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​エッセイ

父の本

​ ある時、ふと思いついてネットで父の名を入力し検索してみた。すると、父の名前とともに、著わした本がネットオークションにかけられているのを見つけた。
 
 私の父は肺結核を患い、45歳でこの世を去った。父は生前、機械工学の本を2冊出版した。が、私は見たことも興味もなかった。記憶にあるのは、切手シートのような印紙のシートが何枚か出版社から送られてきて、印紙に一つ一つ印鑑を押したことである。昔は本の最後に印紙が貼られていた。印鑑押しは子供たちが手伝ったように思う。私たち姉妹がテーブルの上のその印紙シートに取り掛かろうとしていた時、母が「これが最後だって・・・」とさびしそうな顔で言ったのをうっすらと覚えている。


 オークションの値段は¥1600とあり、出品者は名古屋の人で匿名。説明に「箱カバーにシミあり。変色あり」とあった。
 今時、こんな時代遅れの本に興味をもつ人がいるのだろうか。出品者は、買う人がいるかもしれないとでも思ったのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、ひと月が過ぎて、もう一度サイトを開いてみると、当然のこと、そのまま残っていた。

 私が買わなければ誰が買う?という思いで、即決で入札すると、「おめでとうございます!あなたが落札しました」というメールが来て、2日後にその本は送られてきた。

​ それは初めて目にした本で、変色はしていたが、想像していたよりも傷んではいなかった。もちろん機械工学のことなど、私にはわからないが、算式や数式、図解の英語も専門用語で難解そのものだった。
 序には、警視庁に10年在籍していたとか、災害防止や公害防止を2大目標としてきた、など私の全く知らなかったことが記されていた。
 昭和13年初版。値段は3円也。その本は5版目の出版で、その後いつまで出版されていたかも不明だ。母が「これが最後だって・・・」と言った時が最終版だったのだろう。
 
 その本を手にして、私はしばし感慨にひたった。でも今は父の本について語りあう人はもういない。人もこうして、残された品々や記憶といっしょに、やがて消えていくのだなあと思うばかりである。
                            2022.12
 


 

インゲン
 
   5月、わずかな地面にインゲンの種を10か所に植えた。やがてツルが伸び白い花が咲き、赤ちゃんインゲンが、日ごとにみるみる大きくなっていくのを見るのは本当にうれしかった。毎朝、育ったインゲンを見るたびに、今日摘むべきか、明日大きくなるまで待つべきか、と悩むのである。初収穫は7本だったか。徐々に増えて、40本ほど採れたのが最高だった。柔らかく、甘みがあり、ゆでただけでご馳走になる。

 毎朝、私は4時半ごろに起き、家の前を掃いたり、インゲンを摘んだりして気持ちの良い時間を過ごす。インゲンは一晩でびっくりするほど大きくなり、摘み忘れたものは、豆も大きくさやも固くなってしまう。

 ある朝、5時半ごろだったろうか、私はざるを片手に、インゲンの前に立った。インゲンは車庫に沿った25cm幅の土に、ツルをお隣さんとのフェンスにからませて、元気よく伸びている。葉の間に今がまさに摘み時のインゲンがぶら下がっているのを見つけると、自然に顔がほころぶ。

​ と、早朝の静けさを破って、大きな声が近づいてきた。ここは、道に面しているので、朝の散歩をする人がいるのだ。男と女である。おじさんとおばさん。朝のすがすがしい空気を独占するかのごとく、おじさんとおばさんは声高らかになにやら話し、仲睦まじく大声で笑いながら歩いて来た。
 おいおい、まだお休みの人がいるんだよ。あまりにも声が大きくないかい?と思っていると、おじさんとおばさん、歩みを止め私に近づいてきた。
 「なにしてんの?」となれなれしく、おじさん。
 「インゲンを採ってるんです」
と答えたとたん、私はこう言っていた。
 「よかったら、持っていきますか?」
 と、私はざるの中のインゲンを10本くらい、さっとつかむと、おばさんに手渡してしまったのだ。
 その朝の15本くらいの収穫のうち、10本も・・・
​ おばさんは「へー、インゲンだって。うちも植えるといいねー」と、おじさんと大声でしゃべりながらすたすたと歩いて行ってしまった。

 私はしばし、ぼうっと立ちすくんでしまった。なんで丹精込めて育てたインゲンをよりによって、あのうるさいおじさんおばさんにあげちゃったのか、と。
 私は気前のいい人間なのだよといいふりをしたかったのだろうか?
 こんなに立派なインゲンを育てたのよと自慢したかったのだろうか?
 それとも、思考とは別に、突発的に何かをやってしまうものが私の性格に潜んでいるのだろうか?

 その日一日、私の頭はそのことから離れることができなかった。

 1週間ほど後、私はまたインゲンを摘んでいた。そこへ、大声でしゃべりながら再び近づいてきた、あのおじさんおばさん。声ですぐ分かる。
​ 「この間はありがと。みそ汁に入れたらおいしかったよー」とすたすた行ってしまった。
 ふーん、おみおつけに入れるとおいしいのか。今度やってみるべし。
                          2021. 8.

 

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